「世界遺産検定」ローマ帝国編
こんにちは。みやです。
世界遺産検定を受けようと思っているので、勉強のついでにまとめたいと思います。
- ローマの歴史地区と教皇領、サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ聖堂
- カルタゴの考古遺跡
- メリダの考古遺跡群
- エフェソス
- ポンペイ、エルコラーノ、トッレ・アヌンツィータの考古地区
- レプティス・マグナの考古遺跡
- ローマ帝国の境界線
- スプリトのディオクレティアヌスの宮殿と歴史的建造物群
ローマの歴史地区と教皇領、サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ聖堂
登録年1980年/1990年範囲拡大/2015年範囲変更 登録基準ⅰ、ⅱ、ⅲ、ⅳ、ⅵ
イタリアの首都ローマは、紀元前1~後5世紀にかけて地中海全域を支配した古代ローマの歴史を物語る都市です。
この地に人が住み始めたのは紀元前10世紀頃でその後、都市国家を経て共和制国家となりました。紀元前270年頃にイタリア半島全土を掌握したローマは、地中海の覇権をかけて大国カタルゴと争い、3度にわたって繰り広げられたポエニ戦争に勝利したことでローマの覇権は揺るぎないものになりました。
紀元前27年には、カエサルの後を継いだアウグストゥスが初代皇帝となり、帝政ローマの時代が幕を開けました。歴代の皇帝は凱旋門や劇場、浴場、神殿、円形闘技場などの大規模建造物を次々と建築し、現在もその遺跡が残っています。
4世紀には、コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認し、教皇の住むカトリック教会の中心地としてキリスト教の聖堂群がつくられました。
5世紀後半に西ローマ帝国が滅亡すると、8世紀以降は教皇領の首都になり、ルネサンス期には強大な力を有する教皇の下、ミケランジェロやラファエロ、ベルニーニといった著名な芸術家の活躍により芸術の都としての地位も確立しました。
世界遺産に登録されたローマの歴史地区には、ローマ発祥の地とされる七つの丘をはじめ、コロッセウム、パンテオン、カラカラ浴場などローマの力と繁栄を象徴する遺跡が含まれています。
コロッセウムは後80年につくられたローマ世界最大の円形闘技場でティトゥス帝の時代に完成し、剣闘士同士や剣闘士と猛獣との格闘などを公開する市民の娯楽の場となりました。
パンテオンはローマ人が信仰する神々すべてを祀った「万神殿」で、アグリッパが前27年に建て、ハドリアヌス帝が改築、ローマ建築の傑作でありミケランジェロが「天使の設計」と絶賛しました。
カラカラ浴場は市民のためにカラカラ帝がつくった大規模な公衆浴場です。
アウレリアヌス帝によって設けられた城壁は、ローマ中心部を星形に取り囲んでいます。ゲルマン人などの外敵の侵入を防ぐ目的でつくられたもので、ローマ帝国最盛期の遺構の大半はこの城壁内にあります。
現在の登録範囲には城壁外に位置するサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ聖堂のほか、サンタ・マリア・マッジョーレ聖堂やサン・ジョバンニ・イン・ラレラーノ聖堂など、ヴァティカン市国が直轄する3聖堂も含まれています。
カルタゴの考古遺跡
登録年1979年 登録基準ⅱ、ⅲ、ⅵ
カルタゴは、紀元前6~前2世紀頃に地中海交易で繁栄した都市国家でチュニジア共和国の首都チュニス近郊の地中海沿岸に位置していました。
フェニキア人によって築かれ紀元前6世紀頃には地中海西部一帯の通商権を掌握し、イベリア半島の金や錫といった資源をもとに交易によって莫大な富を得て、一時は「世界の覇者」とまで称されました。
その後、カルタゴは地中海の覇権をめぐってローマと激しく争い紀元前3~前2世紀にかけて3度にわたるポエニ戦争で激突しました。英雄ハンニバルの奮闘もあったがカルタゴはいずれも敗戦しました。
紀元前46年にローマのカエサルが植民都市としてカルタゴを再建する計画を立て、その構想は初代ローマ帝国皇帝アウグストゥスの治世下で実現されました。
2世頃につくられたアントニヌスの浴場はローマ世界で3番目の規模となる巨大施設で、浴室、冷浴室、サウナなど合計100以上の部屋を備えていました。
メリダの考古遺跡群
登録年1993年 登録基準ⅲ、ⅳ
スペイン南西部のメリダは、かつてアウグスタ・エメリタと呼ばれていたローマ植民都市の遺跡です。
アウグストゥスによって建設され、イベリア半島の主要都市を結ぶ交通の要衝として発展しました。
最盛期のディオクレティアヌス帝の時代には「スペインのローマ」と呼ばれるまでの繁栄を見せました。
エフェソス
登録年2015年 登録基準ⅲ、ⅳ、ⅵ
トルコ西部にあるかつての港湾都市エフェソスには、ヘレニズムやローマ帝国時代の都市遺跡が残ります。
セルシウス図書館や巨大なローマ劇場の他、「世界の七つの景観」に数えられたアルテミス神殿は地中海各地から多くの巡礼者を集めたとされています。
5世紀以降はこの地で余生を送った聖母マリアの家がキリスト教の主要な巡礼地となり8世紀にアラブ人に侵略されるまで長きにわたり地中海都市の中心として繁栄しました。
ポンペイ、エルコラーノ、トッレ・アヌンツィータの考古地区
登録年1997年 登録基準ⅲ、ⅳ、ⅴ
イタリア南部のポンペイは、紀元79年のヴェスビオ山の噴火で火山灰に埋もれた街です。
16世紀に偶然発見され、発掘された街からは噴火当時のままの建造物や広場が発見され、考古学的にもとても重要なものと考えられています。
逃げ遅れた人が埋まってできた空洞に、石膏を流し込んで再現された人々の姿は悲劇の瞬間を今に伝えています。
レプティス・マグナの考古遺跡
登録基準1982年/2016年危機遺産登録 登録基準ⅰ、ⅱ、ⅲ
リビア北西部、地中海沿岸のレプティス・マグナには古代ローマの北アフリカにおける商業中継地であった港湾都市の遺跡があります。
紀元前10世紀にフェニキア人が築き、ローマの植民都市となった2世紀にはこの地で生まれたセプティミウス・セウェルスがローマ帝国となって黄金期を迎えました。
ローマ帝国の境界線
登録年1987年/2005、2008年範囲拡大 登録基準ⅱ、ⅲ、ⅳ
英国とドイツにある「ローマ帝国の境界線」は、異民族の侵入に備えて築かれた防壁です。
ドイツに残る防壁リーメスはゲルマン民族の襲撃に備え、紀元1世紀末にドミティアヌス帝によって築かれたもので全長550㎞に及びます。
英国北部に120㎞にわたり延びるハドリアヌス帝の名を冠した長城は北方の境界線とされ、その後さらに北にアントニヌス・ピロウ帝による長城が築かれました。
スプリトのディオクレティアヌスの宮殿と歴史的建造物群
登録年1979年 登録基準ⅱ、ⅲ、ⅳ
アドリア海沿岸の港町スプリトは「四部統治」などの帝政改革で知られる3世紀のローマ皇帝ディオクレティアヌスが余生を過ごした宮殿を中心に発展した街です。
ローマ時代の遺跡の上には、のちの時代に増改築されたゴシック、ルネサンス、バロックといったさまざまな建築様式が混在し、独特な街並みとなりました。